「みんなと同じ」が公平とは限らない

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「みんなと同じ」が公平とは限らない

「平等」と「公平」、そして合理的配慮について

学校では、できるだけ同じルールで、同じように子どもたちを扱うことが公平だと考えられがちです。

全員が順番に音読する。
全員がみんなの前で発表する。
質問には口頭で答える。
困ったことがあれば、自分から先生に伝える。

誰に対しても同じルールなのだから、一見すると平等です。

けれども、もともと置かれている条件が違う人に、まったく同じ方法を求めることは、本当に公平なのでしょうか。

「平等」と「公平」という言葉は、法律上きれいに二つに分けて定義されているわけではありません。

ここでは、同じ条件・方法を一律に適用することと、一人ひとりの違いを踏まえて、同じように参加できる条件を整えることの違いを考えるための言葉として使ってみます。

この違いを考えていくと、現在ではよく聞くようになった「合理的配慮」という考え方につながっていきます。

「同じ扱い」が差別になることがある

差別というと、障害があるから入店を断る、性別や人種を理由に採用しない、ある人だけに不利な条件を付ける、といった、本来同じように扱われるべき人を、異なる扱いにすることを思い浮かべることが多いと思います。

もちろん、こうした差別は現在も大きな問題です。

しかし、人権をめぐる議論の中では、それとは別の問題も考えられるようになりました。

異なる状況に置かれている人を、まったく同じように扱うことによって生じる不利益です。

例えば、視覚から情報を得ることが難しい人に、全員と同じ紙の資料だけを渡したとします。

形式上は平等です。全員に同じ資料を、同じ枚数だけ配っています。

けれど、その資料を読むことができなければ、情報を得る機会まで同じになったとは言えません。

点字、音声、読み上げ、データなど、その人が情報へアクセスできる方法を用意することで、はじめて他の人と同じ活動に参加できる場合があります。

「同じにする」ことと、「同じ機会を保障する」ことは、必ずしも同じではありません。

この考え方は、現在の合理的配慮を理解するうえで重要な背景になっています。

「合理的配慮」という考え方

こうした「条件の違い」を踏まえて調整する考え方は、障害者の権利をめぐる制度の中でも発展してきました。

現在、合理的配慮について国際的な基礎となっているのが、障害者の権利に関する条約(障害者権利条約)です。

条約では合理的配慮を、障害のある人が他の人と平等に人権や基本的自由を享有・行使するため、特定の場合に必要となる変更や調整であり、過度または不当な負担を課さないものとして定義しています。また「障害に基づく差別」には、合理的配慮を行わないことも含まれるとしています。

つまり合理的配慮は、「困っている人には、できれば親切にしましょう」という善意だけの話ではありません。

他の人と同じように権利を行使し、社会へ参加できる条件を整えるという、人権の問題として位置づけられています。

障害者権利条約ができるまで

障害者権利条約が国連総会で採択されたのは、2006年12月13日です。

その背景には、長い人権保障の歴史があります。

Nothing About Us Without Us.

「私たちのことを、私たち抜きに決めないで」

障害者の権利をめぐる運動で、長く使われてきた言葉です。

国連も、障害者が自分たちに影響する政策や計画へ主体的に参加する原則を表す言葉として紹介しています。障害者権利条約の策定過程そのものも、障害当事者の参加を実践する重要な場となりました。

障害のある人は、長い間「保護される人」「支援してもらう人」として扱われる一方で、自分自身の生活や支援を決める場から外されることがありました。

本人のために考えている。本人が困らないようにしている。

けれど、そこに本人の意思が入っているのか。

この問いは、場面緘黙の支援にもどこか重なるところがあります。

本人のために、「こうした方がいい」「これならできるだろう」「今やらせた方が将来のためになる」と周囲が決めてしまうことがあります。

けれど、支援を受けるのは本人です。

今何に困っているのか。どのくらい不安なのか。何ならできそうなのか。本人はどうしたいのか。

支援する側だけで決めるのではなく、本人と一緒に考えていく。場面緘黙の支援でも大切にしたい考え方です。

参考:United Nations, International Day of Disabled Persons 2004 – “Nothing about Us, Without Us”

日本は、署名してからすぐには批准しなかった

日本は、障害者権利条約が採択された翌年の2007年9月28日に条約へ署名しました。

しかし、批准したのは2014年です。

なぜ、すぐに批准しなかったのでしょうか。

外務省は、条約の締結に先立って、国内の障害当事者などから国内法の整備をはじめとする制度改革を進めるべきだという意見が寄せられたことを紹介しています。

政府は2009年に「障がい者制度改革推進本部」を設置し、国内制度の改革を進めました。

2011
障害者基本法の改正

社会的障壁や、必要かつ合理的な配慮という考え方が法律に盛り込まれました。

2012
障害者総合支援法の成立
2013
障害者差別解消法の成立

同年、障害者雇用促進法も改正されました。

2014
障害者権利条約を批准

1月20日に批准書を国連へ寄託し、2月19日に日本について条約が発効しました。

2024
改正障害者差別解消法が施行

4月1日から、民間事業者にも合理的配慮の提供が義務化されました。

日本は2013年に国会で条約締結の承認を得て、2014年1月20日に批准書を国連へ寄託しました。日本は141番目の締約国・機関となり、同年2月19日に日本について条約の効力が発生しました。

日本の法律に入った「合理的配慮」

その制度改革の中で、日本の法律にも合理的配慮の考え方が取り込まれました。

2011年に改正された障害者基本法では、第4条に「差別の禁止」が設けられ、その第2項に、社会的障壁の除去を必要としている障害者がいる場合、負担が過重でなければ、その除去について必要かつ合理的な配慮がされなければならないという趣旨の規定が置かれました。

その後、障害者基本法第4条の考え方を具体化する法律として、2013年に障害者差別解消法が成立し、2016年に施行されました。

この法律では、不当な差別的取扱いの禁止と合理的配慮の提供という二つの側面から、障害を理由とする差別の解消を進めています。

当初、合理的配慮の提供について、行政機関等は義務、民間事業者は努力義務とされていました。その後2021年に法律が改正され、2024年4月1日からは民間事業者についても合理的配慮の提供が義務化されました。

国際的な人権条約の中で語られていた合理的配慮は、現在では日本国内の具体的な制度にもなっています。

出典:内閣府「障害者基本法の一部を改正する法律」「令和6年版 障害者白書」

場面緘黙に置き換えて考えてみる

ここまで合理的配慮の成り立ちを見てきました。

では、これを学校にいる場面緘黙の子どもに置き換えて考えてみます。

例えば、クラス全員が一人ずつ自己紹介をする。全員が音読をする。全員が教室の前に立って発表する。先生から質問されたら声で答える。困ったことがあれば、自分から先生へ声をかける。

どれも学校では、ごく普通に行われていることです。

そして、「全員に同じことを求めているのだから平等だ」とも言えます。

けれど、場面緘黙のある子どもにとって、「声を出す」という行動そのものに強い不安や困難がある場合、スタート地点の条件が他の子どもとは違います。

話さなければ、理解していることを示せない。口頭で発表できなければ、学習した成果を評価してもらえない。助けてほしいと声に出せなければ、「何も困っていない」と判断される。トイレへ行きたいと伝えられなければ、我慢するしかない。

こうなると、「全員に同じ方法を求めている」という形式上の平等によって、ある子どもだけが参加できなくなってしまうことがあります。

その場合、筆談で答える、選択肢を指す、タブレットへ入力する、事前に録音した音声や動画を利用する、少人数や一対一で確認する、困ったときに使えるカードや合図をあらかじめ決めておくなど、その子が現在使える方法を一緒に考えることができます。

これは、できないことを免除して、楽をさせるということとは違います。

その子が本来持っている力を使って、学習や学校生活へ参加できる入口を整えるということです。

配慮することと、できることを増やす支援は両立できる

場面緘黙については、合理的配慮を考えるときにもう一つ大切なことがあります。

例えば、現在は発表を文章で提出する。これは、その時点で学校生活へ参加するための合理的な方法かもしれません。

その一方で、本人が「いつか先生とは話してみたい」「少人数なら声を出せるようになりたい」と思っているのであれば、本人の意思と状態を確認しながら、小さな段階を作って取り組んでいくこともできます。

現在の参加を保障することと、将来できることを少しずつ増やしていくことは、矛盾しません。

「配慮するなら、ずっと話さなくてもいい」でもなく、「配慮していたら話せるようにならないから、声を出させる」でもない。

今、その子が参加できる方法を確保しながら、本人が望むのであれば、その先にある新しい行動にも少しずつ取り組んでいく。

その両方を考えることができます。

「みんなと同じだから公平」を、一度疑ってみる

同じ問題を解く。同じ教室で学ぶ。同じ時間を過ごす。同じように活動へ参加する。

そうした機会を保障するために、方法まで必ず同じでなければならないとは限りません。

一人だけ違う方法を使うと、「特別扱いではないか」と感じることもあるかもしれません。

けれど、その方法を使うことで、ようやく他の人と同じ場所に参加できるのであれば、それは「有利にするための特別扱い」とは違います。

スリメノス氏の裁判から合理的配慮、障害者権利条約、日本の法律へと続く流れをたどってみると、人を同じように扱うことだけが、平等を実現する方法ではないという考え方が少しずつ形になってきたことが見えてきます。

場面緘黙のある子どもについても、「みんなと同じことをしているのだから公平」で終わらせるのではなく、

その方法で、本当に同じように参加できているだろうか。

そんなところから考えてみてもよいのだと思います。

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